ライバルはアメリカやオーストラリア 。世界で通用する選手の育成を

BリーグU15チャンピオンシップ3連覇を果たした名古屋D U15を指揮する末広朋也ヘッドコーチ。JBAのテクニカルスタッフとして得た知見をどのようにU15の指導に生かすのか。その手法や育成へのこだわりを語ってもらった。ここでは月刊バスケットボール2023年6月号に掲載し切れなかった分も合わせて公開する。

 

末広朋也
1987年6月29日生まれ/沖縄県出身/地元の宮古高から東海大に進学。大学4年時から学生コーチとして東海大バスケットボールに入部。大学卒業後の2011年よりJBAテクニカルスタッフを務め、2018年より名古屋DのU15チームのヘッドコーチに就任。2021、22、23年とBリーグU15チャンピオンシップ3連覇へと導いた。

 

子どもの頃から
指導者になろうと決めていた

――末広コーチは沖縄県の宮古島出身ですね。
「宮古島の中でも田舎で育った私は、通っていた小学校にミニバスケットしかクラブがなく、運動が好きな児童は、自然とバスケットをするという環境でした。4年生から入れるのですが、早く入りたかったのを覚えています。そしてプレーをしていくのと同時に、当時から将来は学校の先生になって、バスケを教えたいと思っていました。
そのため毎日の学校生活でも、『この先生の授業はなんでこんなに面白いのかな』『この先生はすごく怖いのに、人望が厚いのはなんでなんだろう』なんて観察したりしていました。将来自分が先生になったら、絶対面白い授業をしようって、子どもたちを喜ばせたいって自然と考えていたんでしょうね」
――その頃から、指導の勉強を意識していたのですか。
「勉強というわけではないですね…。高校生までは、本を読んだりもしていなかったですし、単純に観察をすることが好きでした。小さい頃から成功体験を積ませてくれるすてきな大人に恵まれたこともあって、なりたい人間像がたくさんありました。
中でも、宮古高3年のときに顧問の先生が代わったのですが、それまで県大会でも1、2回勝てればいいくらいのレベルだったのですが、戦術的にチームを良い方向に導いてくれて、ベスト8までいくことができました。宮古島は離島で島の中にも4つしか高校がなく、強化をするのもなかなか難しい環境でしたが、そこでベスト8までいけたのはうれしかったですし、指導者でチームが変わるんだなと実感した体験となりました」
――東海大に進学して、バスケットボール部に入らなかったのはなぜですか。
「学生コーチという道もあったわけですが、自分の中で先生やコーチの理想像はあっても、感覚でしかバスケットをやっていなかったこともあり不安が大きかったです。そんな状況で日本一を争っている大学で僕が何を伝えられるんだろうって。それで志願しなかったんですね。
そんな中、在学中に知り合いにエルトラックを紹介され、そこで鈴木良和さん(日本代表のコーチングスタッフ)にも出会いましたし、指導のイロハを学びました。バスケットボールスキルのイロハもそうですし、人に伝えるということのイロハも学びました。
そこで一つの指導の“型”を身に付けられたのはとても大きなことでした。3年間所属していましたが、型を学んで自分なりにアウトプットして、試行錯誤して、また型を作り直して…。この日々が自分を成長させてくれました」
――そして、4年生からは東海大の学生コーチになりました。
「はい。陸川(章)さんの授業を受けたり、そこで話をさせてもらったり、そんな中でなんてすてきな方なんだろうと感じていましたし、最後の1年で、ぜひ経験させていただきたい、チャレンジしてみたいと。何度か断られましたが、最後は入部を許してもらいました。
そこで何をするんだということですけど、日本一の選手たちなので、僕がスキルを教えるわけではないですし、自分ができることを探していくうちに、データ分析で少しでもチームに貢献できないかと考え、自分なりにやってみました。分析ソフトなどもすばらしく、先輩の学生コーチに教わりながらのめり込みました。
そもそも、僕は宮古島の子どもたちで日本一を目指したいという夢を描いていて、それをかなえるためには緻密なバスケットをしなければならないと考えていました。卒業したら宮古島に帰って教員になるつもりでしたから、関東で学べるのはあと1年しかないという状況でした。そういう意味でも、データ分析に詳しい人に話を聞きに行ったり、本を読んだり、できる限りのアンテナを張って必死に勉強をした記憶があります」
――JBAのテクニカルスタッフになったのも偶然のきっかけだったと伺いましたが。
「そうですね。本当は別のスタッフが行く予定だったようですが、急きょ代役として日本代表の台湾で行われた大会のビデオ撮影スタッフとして連れて行ってもらいました。それがきっかけで、男子日本代表のテクニカルスタッフに誘ってもらいました。教員になるのを先延ばしにして、JBAに就職することを決めました。どのような仕事なのか不安もありましたが、数年間コーチングを遅らせてでも、自分の目標達成に対して遠回りではなく近道になる確信がそこにはありました。
当時は、現・女子日本代表ヘッドコーチの恩塚(亨)さんや、男子日本代表のアシスタントコーチをしていた東頭(俊典)さんなどがデータの分析をやられていて、いろいろと教えていただきました。分析というのは”切り口”が大切で、そこや着眼点がずれていると、必要な結果にたどり着くまでに時間がかかってしまうんです。「バスケはこうやって見るんだ」「スタッツってこういうふうに見ていくんだ」と、効果的な分析方法、近道につながる着眼点を学びました」

試合は成長の場。大会のある試合期は、
IQのトレーニングをしやすい

まずは個の強化。そしてバスケIQを育てていく

 

JBAテクニカルスタッフで得た知見を
U15の指導に生かす

――プロのアナリスト、分析官からコーチの立場になりましたが、そのきっかけはどういったところにありましたか。
「コーチになるというのはずっと心にあって、自分のやりたいことは変わっていなかったということです。大学を卒業したときもそうですし、JBAに7年間所属していたときもずっと心の中にありました。
テクニカルスタッフとして、全てのカテゴリーで世界選手権を直に経験できたときに、次はコーチとしてチャレンジしたいという気持ちが芽生えてきました。自分自身で、世界に通じる選手を育成したいと。そのときに、30歳という区切りでコーチに転身しよう決めました」
――コーチとなる際、U15のカテゴリーを選んだ理由を教えてください。
「学校の先生を目指していたこともあり、元来子どもたちの成長を見るのが好きということと、7年間でたくさんの世界大会を経験し、ヨーロッパや南米のチームと対戦していく中で、U15での選手育成がその先の選手の可能性を左右すると感じたことです。世界の強豪国と変わらないような育成を実現できれば、その先の日本バスケットの可能性も広がっていくかもしれないと考えました。
なぜ教員ではなかったかというと、コーチに転身するタイミングで、B1のチームにU15を作らなくていけないというルールができ、プロコーチとしての道が開けたからです。それまでの日本では、中学生年代の選手を教える場合、学校の先生になって部活動でバスケットを教えることが通例でした。そこにもう一つの選択肢ができ、プロコーチとして育成に没頭できるなら、そこでチャレンジしたいと考えました」
――アンダーカテゴリーの場合、育成と勝利のバランスが難しいと思います。まして分析を仕事とされてきたわけで、どうしても勝利至上主義的になりそうな気もします。
「勝利を目指すから、選手は目標ができ、工夫する力が湧き、それが結果的に良い育成につながると考えています。
確かに、勝つための観点はゲーム分析を通して学ぶことができました。その観点で試合を組み立てていきます。しかし、ゲーム分析の観点が本当に発揮されるのは、選手の力が付いてきた後です。実力がないのに、作戦を立てても実行できずに終わります。なので、年間通して戦術的な練習は少ないです」
――最終的にU15チャンピオンシップで優勝するために、1年間かけてどのようなプランで臨みますか。
「まずは、個の強化。オフェンスもディフェンスも両方。春夏の時期は徹底的にそこに重きを置いています。
個人として価値を持たない限り、チームを離れたときに、1人では何もできない選手になってしまいます。ですから、育成世代では、連係プレーもあまり練習する必要がないのではと感じている部分もあります。
試合期になると、IQを高めるチャンスなので、試合を通して、戦術的負荷を高めていきます。判断の1つ1つを言語化し、日々その質を上げていく作業に入ります。試合中に反射のレベルで良い判断ができるように、練習ではできるだけ言語化すること、理屈、根拠を持つように選手には求めています。
間違えてはいけないことは、IQを高めることが先ではなく、個の強化が先だということです」

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優勝という結果は、方向性が間違っていないということを実証してくれただけ
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