<インタビュー>国内初のプロ レフェリー 加藤誉樹氏

史上初の JBA公認プロフェッショナルレフェリーとして活躍する加藤誉樹氏。多くの挫折を味わった選手時代から一転、現在はレフェリーとして Bリーグをはじめ、数々の試合を担当。ファンにもおなじみの存在となった。今回は加藤氏のレフェリー人生の全てを語ってもらった。(月刊バスケットボール2019年12月号掲載)

レフェリー
加藤誉樹 JBA公認プロフェッショナルレフェリー/FIBA公認審判・JBA公認 S級審判
1988年 6月 30日生まれ

バスケット一家に生まれ
バスケットに囲まれて育つ

 

―ご両親が元選手という環境ですが、バスケットボールとの出会いはいつでしたか?

「物心つく前からバスケットボールが身近にあって、子どもの頃は七夕の短冊に『将来はバスケットボール選手になる』と書いていました。生まれたときからそこにあったという表現が正しい答えかもしれません。それ以外の競技を考えたことすらなかったです。幼稚園生の頃からドッジボールでダムダムしているような、そんな子どもでした」

―競技を本格的に始めたのはいつでしたか?

「私は小学生の頃に一度転校を経験しています。最初に入学した学校には小学4年生からクラブ活動があったのですが、父がバスケット部の顧問の先生と知り合いだったこともあり、小学2年生の頃に年上のお兄ちゃんたちに交じって競技を始めました。ただ、スクエアパスにも付いていけなかったので、体育館の片隅でドリブル練習をしていました。最初はそれだけであまり楽しくはなかったですね。それで、3年生の頃に一時クラブ活動に行かなくなりました(笑)。その後、別の小学校に転校したのですが、そのタイミングで「岡崎子どもバスケットボール教室」に入りました。そこにはたくさんの学校から子どもたちが集まっていて、私もその一人。学校が終わるとすぐに家に帰り、晩ご飯を食べ、電車で1時間ほどかけて練習に通うという生活です。中学は普通の公立校に進んだのですが、私たちの代では県大会の一歩前の地区大会で負けてしまいました。決して華々しいバスケット街道を歩いてきたわけではありません」

―その後、いわゆる「普通の中学生」が名門の福岡大附大濠高に進学することになります。不安はありましたか?

「不安しかなかったです。高校入学直前の中学年の春休みに大濠の合宿に参加したのですが、私以外の特待生はみんな九州出身で向こうの方言をしゃべるんです。私だけが愛知県出身なので、そもそも何をしゃべっているのか分からない。それに加えて日中の練習がものすごくハードだったので、具合が悪くなり、熱が出て合宿中に倒れてしまいました。高校時代はそんな幕開けでした(笑)」

―大濠高は勉学の面でも高いレベルが要求されますね。

「選手としてはあまり良い思い出がないのですが、私が大濠で誇れることといえば学業の面です。部内の選手は中学校時代のスター選手ばかりですが、勉強では同級生のスター選手には負けない気持ちで取り組んで、学年1位を取ったこともあります。同期の橋本竜馬選手(北海道)などは勉強にもすごく熱心で、刺激を受けていました。バスケットでなかなか仲間に勝てない分、そういったところは意識して取り組んでいましたね」

―高校時代の思い出は?

「私が在学していた当時の大濠にはマネージャーという立場の人間がいませんでした。普段の練習では1年生が飲み物の準備やアイシング、先輩のシューティングのリバウンドを拾い、試合のときは年生が一人、スコアを記録するためだけにマネージャーとしてベンチにいました。私は当時から『強いチームには良いマネージャーがいなければいけない』という考えを持っていました。2年生になれば当然その仕事を1年生に引き継ぐことになりますが、私は当時から病気やケガが重なり、膝の状態もあまり良くありませんでした。下級生にも各中学校のスター選手が入ってくるわけで、そうなってくるとベンチ入りを狙うこと自体が非常に難しくなってきます。そこである日、職員室で田中國明先生(故人)に『何でもやるのでマネージャーをやらせてください』と申し出ました。それ以降は毎日の練習には参加するのですが、大会期間中はマネージャーとして登録されています。前置きが長くなりましたが、高校3年生の最後のウインターカップで田中先生から『加藤が全部やってみなさい』と言われました。具体的には東京体育館最寄りの千駄ヶ谷駅までの切符や当日のお昼ご飯の手配といったことを経験しました。こういったことを大濠で初めてやった人間だと思いますし、思い出に残っています。

―当時から黒子的な役割にも関心があったのですか?

「そうですね。もちろんバスケットをやっている以上、選手として活躍できることが一番ですが、もしそうなれなかったとき、それで終わってしまうのが嫌でした。そんな中で違う道を模索するというか、その競技を支えるという部分で何かできることがあるのではないかという思いがありました。それが今の私にとってのレフェリーであり、周りの人とは違う道かもしれないけれど、その道でしっかりとやり切るということが大切だと感じました」

選手生活にピリオドレフェリーへの道が開かれる
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