<インタビュー>国内初のプロ レフェリー 加藤誉樹氏

選手生活にピリオドレフェリーへの道が開かれる

 

―その後、慶応義塾大に進学しました。ここで選手としての生活にピリオドを打つこととなったわけですが …。

「本当は終わらせたくなかったです。その決断をした一番の理由は、チーム内の同級生の中から大学バスケットボール連盟(学連)への派遣選手を決定する必要があったことです。学連は常勤に近い状態だったので、そこに派遣されるということは部活動には参加できなくなるということを意味していました。部内での役回りは同級生の選手とのミーティングで決めるのですが、最終的に学連に誰を派遣するかという話になったとき、私の名前が挙がりました。当時の私の心情からすると、戦力外通告を受けているような気持ちだったし、最初のうちはかなり嫌がりました。最終的には選手としての人生にピリオドを打つことになるのですが、そのときは不甲斐なさや不完全燃焼な気持ちがとても強かったです」

―そこまで嫌がっていた学連での業務を引き受けた理由は何でしたか?

「その当時は選手を続けたい一心で、学連がどういう場所なのか、なぜそこに誰かが行く必要があるのかを全く考えていませんでした。とにかく自分のポジションを守ることに必死だったので。そんなある日の通学中に『学連はどんな場所なんだろう?」と考えました。選手は遅かれ早かれいずれは引退するときが来ます。それ以降もバスケットに関わっていきたいのであれば、むしろここで選手生活にピリオドを打って、学連に行くことには意味がある。選手ではない側面を知ることができるというのは、そこから先のキャリアですごくためになるのではないかと考えました。すかさず父に電話をし『ごめん、選手辞める』と伝えました。ミニバス時代からたくさんのサポートをしてくれていたので。そこからは早かったですね。次の日のミーティングで学連に行くことを仲間に伝え、その次の日には事務所に出向きました」

―学連に進んだことがレフェリーの道へ進むきっかけになりました。

「学連に入った当時、私は広報部で、ホームページの管理などを行っていました。気持ちは完全に切り替わってポジティブに業務に取り組んでいましたね。選手としての信頼を勝ち取れなかったことが、どんなところでも周囲の人たちから必要とされるような形で業務に取り組みたいという考えにつながったんです。そこからなぜにレフェリーの道に進んだのかということなのですが、あれは大学2年生の8月2日のことでした。高校生の試合のレフェリーをしてほしいという依頼が学連に寄せられたのですが、学生レフェリーのときに日本公認級ライセンス(当時人数が足りない可能性がありました。そんなとき、審判部の先輩が広報部にいた私に『加藤君は大濠出身で慶応大生だし、できるでしょ!』と言ったのです。そこでスポーツ用品店にレフェリーカッターとスラックスを買い、練習試合で吹いたのが始まりでした」

―レフェリーとして初めてコートに立ったときの気持ちは?

「当時は今のようになるとは思っていなかったし、そもそもレフェリーとはどういうものなのかも全く分かっていませんでした。ファウルだと思ったら笛を吹くというような感覚です。自分の目からは全く見えていない位置の出来事をバイオレーションとしてコールしていました。ライセンスを取ろうという気持ちは始めた当初はありませんでしたね」

―実際にレフェリーという立場で試合を見て、選手の立場とのギャップは感じましたか?

「選手という感覚でスタートしたので、始めた当初は全く見えていない位置や笛を吹いてはいけない位置からコールをしていました。しかし、選手としての感覚が勝っていたため、そのジャッジが正しいこともありました。そこからレフェリーの勉強を始めると『見えないものは吹かない』というのが基本ということを知りました。なので、逆に笛が鳴らせなくなったんです。そこから『これはどういうところに動けば見えるようになるのだろうか』ということを考えて実践しているうちに、また少しずつ笛数が増えていきました。今度はレフェリーとしてのコールができるようになってきたんです。そこからは何を吹いて、何を吹かないのかを厳選していく作業に入ります。試合ごとのムラを無くし、ゲームにマッチしたコールができるように今でも日々研さんを積んでいます」

―ライセンスを取ろうと思ったきっかけは何でしたか?

「私の初めてのジャッジを審判部の先輩方が高く評価してくれて、学連に入って最初のひと月ほどで広報部から審判部に異動しました。4年生になったときに日本公認B級ライセンス(当時の日本公認)を持っていなければ後輩に示しがつかないし、説得力がないと感じたことがライセンスを取得しようと思ったきっかけです。そのチャンスは年に1回のみで、4年生になる前に取得するためには、3年生の年の日本公認審査会に合格する必要がありました。そこで、大学2年の年明けに長かった髪をばっさりと切り、ライセンスを取得することを目標に掲げました。本格的に勉強を始めたのはそこからです」

―ライセンスを取るにあたり、どのようなことに取り組みましたか?

「審査当日にはルールのテストと実技が行われます。また、事前にシャトルランによる体力テストを受けて合格していることも条件です。実技については実際の試合を審査員の方がご覧になります。基本的なレフェリング法や判定そのものが正しいのか、ほかのレフェリーとの連携やコール後のアクションもレフェリーにとっては大切な要素です。それを想定し、学連のメンバーとして派遣される試合後に仲間や先輩、後輩に意見やアドバイスをもらいます。ほかにも模擬テストを受けたり、お互いに問題を出し合ったりと、高校受験のような感覚でした」

―その後、大学院卒業後に大手銀行に就職し、レフェリーとの二足のわらじを履く生活が始まりました。

「大学時代はスポーツビジネス専攻のゼミに所属し、スポーツ業界の経営・運営の勉強をしていました。そんなとき、教授から『今学んでいることはスポーツ業界限定のことであり、他の業界を知らないうちに一つの業界だけのことを考えるのはもったいない』と言われました。経営・運営においてはお金の流れが付きものなので、一度銀行に就職し、一般企業の経営・運営のお手伝いをしながら世の中の流れを知るということは、いずれスポーツ業界に戻ってくるとしても、そうではないとしても重要なことではないのかと考えたのが就職の決め手です。そして、就職したその年がA級ライセンスを取得した年でした。社会人になったと同時に仕事とレフェリーを両立する生活が始まりました。就職活動中は暦どおりに仕事ができる分、レフェリーとして活動するのにもメリットがあると感じていました。ただ、いざ働いてみると通常の業務以外の部分でいかに自分を成長させられるかが大切な職種だということが分りました。私の場合は当時からトップリーグのレフェリーを担当しており、両立が難しかったですね」

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